田丸理砂『「女の子」という運動』

 第一次大戦後、ワイマール共和国の首都ベルリンに颯爽と現れた「モダンガール」、「新しい女」(die Neue Frau)、すなわち、都市で働くホワイトカラーの女性。とりわけタイピスト、電話交換手、デパート店員。彼女らは「女の子」(Mädchen)と呼ばれ、また自称した。髪を短く切り、ひざ下丈のスカートを履き、化粧をし、おしゃれで軽やか。「ワイマールのモダニティ」の象徴として、彼女らのイメージはメディアを通して広がった。そしてワイマール共和国末期には、印刷メディアの繁栄とともに、「女の子」を主人公とした小説を書く女性作家が登場する。本書はその女性作家たちによる作品に焦点を当てる。
 本書で登場する作家は、マーシャ・カレコ、クリスタ・アニータ・ブリュック、ガブリエレ・テルギット、ヴィッキイ・バウム、イルムガルト・コイン、アニタ・ルース、マリールイーゼ・フライサー。日本ではほとんど知られていない作家ばかりである。ドイツ文学研究においてワイマール時代の女性作家の再評価が進む中、本書は日本におけるこれらの作家のガイドブックにもなっている。
 メディアで宣伝される「新しい女」のイメージは華やかだが、当然ながら、現実はそう甘くない。これらの作家はそのイメージと現実のギャップを描いた。まず、月曜日から金曜日まで毎日働かなくてはならない。仕事は退屈で代わり映えしない。速記タイピストは上司の口述と一言一句違わずタイプしなければならないのに、一文中に「結局のところ」が3回も出てくると、上司はタイピストのせいにする。タイプライターより安い消耗品としていつ解雇されるかもわからない。出世を望んでも、「女の子」が会議に参加するなんてグロテスクだと笑われてしまう。セクハラを受けても、解雇を恐れて告発することができない。

「きれいでいること」

 興味深いのは、「女の子」たちにとっての「きれいでいること」の両義性である。テルギットは書く、「絹のウェーヴのかかった髪は、生存競争における武器なのだ」。

どこであっても美しくて身ぎれいな女性のほうが生きやすい。きれいな店員のほうが売り上げがよく、上司はきれいな女性に口述筆記を頼みたがり、きれいな人に授業を受けてもらいたいし、帽子の注文もきれいな人からのほうが喜ばれる。それはまったくひどい、けれど事実である。とはいえ今日、人はきれいなのではなく、きれいになるのだ。もしも彼女が、自分がきれいだと感じるなら、自信が増し、人生の困難を乗り越えられる。(テルギット「要求の多い娘たち」)

 「美しくて身ぎれいな女性のほうが生きやすい」。店員としても、事務員としても、生徒としても、消費者としても。「それはまったくひどい」。本当にひどい。そうわかっていても、そして上の世代の女性に陰口をきかれながらも、「女の子」たちは化粧をし、美容院に通い、きれいな靴下を履く。しかしきれいでいることはまったくの強制であるかといえば、そうとも限らない。「自分がきれいだと感じるなら、自信が増し、人生の困難を乗り越えられる」のだから。
 コイン『偽絹の女の子』の主人公ドーリスは、自分へのセクハラ加害者である上司に啖呵を切る。「先生のように大学も出た人がどうしてこんなにまぬけなの。だいたい若くてきれいな女の子がこんな人に夢中になるとでも思ってるわけ。鏡を一度も見たことがないの」。一方で、彼女はタイピストとして「ひたすらタイプを打ちつづける」しかない自らの境遇をぼやきながら言う。「それでも少しはすてきな服もほしい。だってそうでもしないと何の値打もない人間になってしまうから」。ドーリスは自分がきれいな「女の子」だという自信がある。だから野暮ったい上司に向かって「鏡を一度も見たことがないの」なんて言うことができる(それでももちろん社会的地位は上司の方が上で、彼女はこの発言のせいで失職するという)。しかしその裏返しとして、もしおしゃれできないのなら、自分が「何の値打もない人間になってしまう」と感じるのだ。きれいなことそして若いことがあらゆる場面でその「女の子」の価値を決めるということは、ある面では解放的で、ある面では抑圧的である。

「書くこと」とフライサー

 本書で扱われるテーマのひとつは、「書くこと」である。印刷メディアが拡大するにつれ、女性読者が消費者として無視できない存在となると同時に、男性だけの特権であった「書くこと」は女性にもアクセスできるものとなった。タイプライターの普及が読み書きできる女性を増やしたことも、女性作家の登場を後押しした(ただしその反面、事務は「女性的な職種」とされるようになっていった)。
 女性作家が続々と登場し、その中から商業的に成功するものも現れた。しかしそれは「書くこと」をめぐるジェンダーの格差がなくなったことを意味するわけではない。女性作家による作品は、ある場合には「娯楽小説」「通俗小説」として一段低く置かれ、またある場合には「女流」作家による作品として一括りに扱われた。
 本書第6章から第8章で扱われるマリールイーゼ・フライサーの場合には、書き手のジェンダーは、「都市/地方」というもう一つの構造と重なる。フライサーはブレヒトやフォイヒトヴァンガーに高く評価された作家だが、彼女の名には常に彼女の故郷であるバイエルンの一地方都市「インゴルシュタットの」「インゴルシュタット出身の」という言葉がついてまわった。フライサーの戯曲による芝居『インゴルシュタットの工兵たち』は、ベルリンで上演された際、ブレヒトの挑発的な演出によってスキャンダルを巻き起こす。インゴルシュタット出身の女性が、インゴルシュタットという町を「偽善ぶったバイエルンの俗っぽい田舎町」として描き、そこに住む女性たちを性的な存在として描くということは、当のインゴルシュタットの男性たちには許しがたいことだった。

どうぞこの娘を結婚させてやってください。そうすれば彼女もコンプレックスから解放されないからといって、ものを書くというのは諦めるでしょう。彼女の手がペンを握れぬよう縛りつけてほしい。(インゴルシュタット市長に当てた、新聞への投書)

 フライサーの作品は故郷インゴルシュタットでは受け入れられない。彼女の作品に冠される「インゴルシュタットの」は、インゴルシュタットの外側、ベルリンという大都市の読者に向けてのものであり、彼女の活動する場所はあくまでベルリンなのである。
 しかし、だからといって、フライサーがベルリンでは何の留保もなしに受け入れられていたというわけではない。彼女の名前をインゴルシュタットという地名といつも結びつけようとしたのは、ブレヒトをはじめとするベルリンの前衛(男性)作家たちであった。フライサーにとってインゴルシュタットは現実の故郷の名前だが、彼らにとってのインゴルシュタットはベルリンと対峙される「地方」一般を指していた。彼女は大都市ベルリンにおいて、男性作家に囲まれて作家活動を行うが、その際インゴルシュタットという「地方」出身であること、そして女性であることによって、二重に周縁化されていたのである。
 フライサーの作品は、さまざまな「女の子」を描く。ある「女の子」は家から出られないままに打ちひしがれ、ある「女の子」は恋人の暴力にさらされ、またある「女の子」は「男友達」と散歩をする。本書の最終章では、『小麦売りのフリーダ・ガイアー』の主人公フリーダが、それまでフライサーが描いてきた「女の子」たちとも、ワイマール期の女性作家たちが描いてきた「女の子」たちとも違う、孤独を覚悟した上で、自分の力で自分の人生を切り開こうとする女性像として紹介される。

 大量消費社会の始まりに位置するワイマール共和国の「女の子」たち、すなわち女性ホワイトカラーが出会うさまざまな困難は、現代の働く女性にも通じるものだろう。たとえばきれいでいることは、いまでも、テルギットが書くのとまったく同じように、一方で社会的な圧力として、もう一方で自己実現の問題として迫ってくる。成熟や能力よりも若さを評価されることも、セクハラや痴漢から「自衛」を求められることも、「女だから」と退屈な仕事しかさせてもらえないこともある。堕胎を禁じる法律はないけれども、中絶や「未婚の母」に対する世間の目は冷たい。「それはまったくひどい」。でも、困難の中にいながら、少しでも楽しみたい。前の世代ができなかったことをしてみたい。我慢しないでものを言ってみたい。自らのセクシュアリティに素直でありたい。いまある枠からはみ出して、自分の思うように生きてみたい。私たちはみなそう思うだろう。だからこそ、80年前のベルリンの「女の子」たちが、華やかなイメージの裏で何に直面し、何を感じ考え、何を書いたか知りたくなる。新しい世界へ一歩踏み出すために。