夢は既にかなっている

 ストリップ劇場では、それぞれの踊り子が作り出す夢の世界に、私たち観客もあずかることができる。
 ストリップのステージは、これまで繰り返し描かれてきた「理想の女性」を単になぞるものでも、あるいは単に観客の求めるものを見せるものでもない。観客の期待(それ自体一枚岩ではないだろう)は決して否定されないが、何を見せるかの主導権はあくまで踊り子にある。彼女たちは、これまで女性に結びつけられてきたさまざまな要素を拾い上げ、使い、それらと遊びながら、きらきら光る夢を作り出している。
 ステージの上で服を脱いでいる踊り子と、客席で服を着ている観客。ほかの芸能では考えられないほど近い距離にありながら、両者は深く断絶されている。そして、断絶されていながら、両者の間には濃密な交感がある。
 ステージの上、照明にいろどられ、踊り子はたった一人で服を脱ぐ。彼女の表現するもの、そしてその先にある彼女の表現したいものを受け入れる準備が観客にはできている。その場に成り立つ、見せる者と見る者の奇跡的なバランスは、一方でとても崩れやすいものでもある。たとえば踊り子に手を触れる客、心無い声をかける客がいれば、とたんに彼女は無防備な、裸の女性になってしまうだろう。そのことを皆、肌で感じているからこそ、劇場の中にはいつも温かな敬意が満ちているのかもしれない。
 踊り子のようになりたいのかとときどき訊かれる。現実的に近づきたい、なりたいというより、もっと非日常的な変身願望なのだと答えたい。スポーツでいえば、短距離走フィギュアスケートを観るときに近い。アニメの変身シーンにも近いかもしれない。舞台に立つ踊り子の表現、そして彼女たち自身の身体を通して、私たちの夢もかなっている。

 

*2018年夏コミで発行したコピー本に入れた文章です。

f:id:usagisan_u:20201121014638p:plain