シアター上野と一条さゆり裁判:小沢昭一『本邦ストリップ考』

都内にあるストリップ劇場の一つ、シアター上野が摘発され、経営者や踊り子が逮捕されたという。

居合わせたお客さんのtwitterで知ってやきもきしている数日のうちに、ニュースで大々的に報じられた。どこまで本当か知らないが、朝日新聞(4/17)によれば警察は「東京五輪を前に、盛り場対策に力を入れ、環境浄化を進めていきたい」と語ったという。摘発は私がストリップを見始めてから初めてのこと。もう行われないものかと思っていたのは希望的観測にすぎなかった。

一条さゆり裁判

ずっと積んでいた小沢昭一の『本邦ストリップ考』に一条さゆり(初代)の裁判記録が載っているのを思い出して読んでみた。

本邦ストリップ考―まじめに (小沢昭一座談)

本邦ストリップ考―まじめに (小沢昭一座談)

  • 作者:小沢 昭一
  • 発売日: 2007/08/01
  • メディア: 単行本
 

一条さゆりは1972年、大阪にあった吉野ミュージックという劇場での引退興行の最中に逮捕された。その後起訴され、裁判では同年から1975年にかけて最高裁まで争ったものの、上告は棄却され実刑が確定する。それまでにも公然わいせつ罪での複数回の逮捕歴があり執行猶予中だった彼女は懲役刑に服することになる。

出所後の彼女に小沢は語りかける。

あなたの「罪」は、必ずいつか「罪」ではなくなる日が来るでしょうが、私のもっとも敬愛した一条さゆりさんの舞台が、いま「罪」だったということは、これは私にとってユユシキ問題なので、とくと点検しなければならないのです(109ページ)

この「点検」のために、この裁判の記録は雑誌に掲載され、単行本化されて、現在でも古本でかんたんに手に取ることができる。

ストリップはわいせつか

当然ながら裁判で語られるのは裁判を有利に進め、無罪を得るための証言であり、それによって見えにくくなっている部分もある。例えば彼女の不幸な生い立ちや仕方なく露出をしたという証言は、裁判という場では情状酌量のために必要だっただろうが、ストリップが「罪」になるかどうかに関しては重要ではない。

しかしそれを踏まえても、この裁判において、私たちの現在思うような論点はほとんど出揃っているといえるだろう。例えば以下の点。

  • 逮捕及び起訴は露出が即「わいせつ」行為であるという前提に基づいているが、「社会通念」は変化するものであり、その前提も再検討されるべきである
  • 見たくない者の目に触れる行為とは異なり、ストリップにおける露出は入場料を払い、演技を望んで来た観客を相手に「社会的に管理された環境」の中で行われる=被害者がいない
  • 性表現に関する人々の感じ方は著しく変化し、ストリップ劇場内での性表現は大衆娯楽の一つとして定着している
  • 大衆娯楽の一つとして、ストリップは社会的価値と意義を有している:「目の肥えた観客は、各自其の日のなりわいを忘れるため被告人の艶やかな磨きのかかった演技を鑑賞することによって目の保養をするに過ぎない」(162ページ)

また、論点というほどではないが、ある証人は、いまでいうセクハラ(食堂などにいる女の子に卑猥なことを言ってからかう)のほうがストリップよりずっと悪いことだと語っている。本当にそのとおり!

これらの論点が具体的に答えられることはほとんどなく、裁判官による判断にどのような影響を与えたのか、または与えなかったのかを知ることはできない*1

公然わいせつ罪の対象から外すことも決して不可能ではない

この裁判の時点で公然わいせつ罪は、とくにストリップに適用することに関して、すでに時代遅れのもの、少なくともいずれ時代遅れになるものという見方があった。最高裁に提出された法学者らによる意見書は、各国のポルノの自由化・非犯罪化の事情をそれぞれに報告しており、これらの国際的な方向性のなかに日本も位置づけられていた。

最高裁の決定後の弁護人らによる異議申立理由書は、「いわゆるストリップショーを公然わいせつ罪の対象から外すことも決して不可能ではないと信ずる」とはっきり語る。さらに小沢はこの記録の終わりに、この裁判が「陪審制」で行われたならどうだったのかと問いかける。

それなのに、2021年

一条さゆり裁判の弁護人であった杉浦正健は、裁判記録の解説のなかで、「何十年か後には、勝ち負けに関係なく何というバカげた裁判をしていたのか、ということになるような気がしてならない」(109ページ)と書いている。

裁判から50年弱が経ち、性風俗・性表現をめぐる状況はさらに変化した。ストリップもそのあいだにさまざまな変遷を経て現在に至っている。私は現在のストリップのあり方が好きで、各劇場に通っており、もちろんシアター上野にも何度も行ったことがある。社会が変化し、ストリップも変化して、「「罪」ではなくなる日」はとっくに来ていてもおかしくない。

しかし、取り締まる側の論理や多くの紋切り型の報道はその変化を反映していない。とくに、感染症により客入りが落ち、しかも性風俗業は国による支援の対象から外されているこのタイミングでの検挙、長い勾留、また顔や名前を出しての報道はあまりに暴力的だ。「何というバカげた裁判をしていたのか」とはまだとても言えない。

↓現場に居合わせ、事情聴取を受けたお客さんによる記事2件。

note.com

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↓今回の摘発に抗議し、「性表現を自らの意思で扱う自由」を訴える日本芸術労働協会(木村悠介さん)への取材記事。

www.j-cast.com

おまけ:語られるストリップと一条さゆり

裁判のなかでは、被告人である一条さゆり、劇場関係者、作家らからストリップとはこういうもので、踊り子とはこういうもので、そして一条さゆりとはこういう人だと、関係のないようなことも含めあれこれ語られていく。

ストリップを含めた芸能について取材をしていた考学靖士(当時関西新聞文化部長)の証言はいまのストリップにも通じるものがある。

考学 非常におおらかなものです。ストリップ劇場の客席というものは……。子供が母親にアメ玉をせびる。それに母親が応えてやる。そういった関係が客席と踊子との間にはあります。
弁護人 そうすると観客と踊子との間には何か悪いことをこそこそ隠れてやっているというような陰湿な感じ、あるいは照れたような感じ、そういう態度をしている客を見たことがありますか。
考学 いないですね。率直に楽しんでいます。

また、小沢が一条さゆりについて語る言葉はほとんど、現在のある種の踊り子を語っているかのようだ。彼女が舞台上でどのように身体を動かしていたのかを知ることができなくとも、彼女が客席にもたらしていた効果がどんなものだったかは、現在のストリップを知る者ならきっと想像することができる。

あなたの舞台には、お客さんがほんとに満足してみんな帰って行く。その満足の仕方っていうのが、単に裸を見たとか、どこそこを覗いたとか、ということだけではなくて、一条さんのお客さんに尽くす気持ちっていうか、男に尽くす気持ちっていうか、あるいは人間を愛する気持ちというか、そういうようなものに、みんなまいっちゃって、もうほんとに、みんなが満足しきってですね、帰っていった。(93ページ、一条さゆりとのトークショーで)

劇場で、このような経験を私もたしかにしたことがある。

彼女の真剣さや優しさがワイセツを包み込んで、むしろ、いつくしみの心が伝わるような舞台であった。感動する客も多かった。私はいつもナケて来た。(328ページ)

彼女を逮捕した警察官の一人が、彼女がその後開いた寿司屋の開店初日からの常連になっていたというエピソードも紹介される。月並みな言い方だが、本当に人を惹きつける魅力のあった人なのだろう。

*1:追記。地方裁判所は劇場での露出即わいせつ即犯罪という前提を崩すことなく、ただし被告の生い立ちや境遇には同情すべき点があるので(!)懲役刑を最低限に留めるとしている。高裁と最高裁も基本的にそれを踏襲している。「本意ではない」のアピールはある程度有効だったのである。