永山薫『増補エロマンガ・スタディーズ』

 エロ漫画というジャンルは漫画そのものの豊穣さに対応するほどの広く深い世界を形づくっている。それにもかかわらず、エロ漫画を語ること――性について語ること――には本書のまえがきで「エロの壁」と呼ばれているような難しさがある。本書は、編集者として数多のエロ漫画を目にしてきた著者による、エロ漫画の「手引き書」であり、この語りにくいジャンルをなんとかして語ろうとする試みである。

 本書ではリチャード・ドーキンスにもとづいて「ミーム」(文化遺伝子)という概念が使用される。当然ながらこの言葉は比喩であって、この言葉で語られる影響関係も、厳密な研究にもとづくというより時代の気分といったものだ。しかし、著者がこの言葉を使うことで示したいのは、実証的に明らかにされる個々の影響関係ではないだろう。この語によって繰り返し主張されているのは、エロ漫画というものがいかに多様であり、そして今日のその多様性がいかに重層的な歴史にもとづいているかということだ。

 エロ漫画の多様性は、人間の欲望や妄想の多様性をかかえている。本書はこの多様な欲望や妄想のあり方を、膨大なエロ漫画を引用しながら、半ば外側から半ば内側から描こうとしている。たとえば、年齢制限のない少年誌のエロコメは「単なるセックスではなく、セックスの重力圏ギリギリのところで性交を封印し、それ以外のエロチックな妄想のみを高めて行く」(p. 41)。一方で、エロ漫画の中でも「エッジ」の部分である人体改造への言及のあとにはこのように述べられている。「我々はすでに性器結合が快楽のゴールではないことを知っている。……そこでなによりも重要なのは何をエロチックと感じるか、どういう状況に欲情するか、どんな相手に興奮するのかという心理であって、性器結合や粘膜摩擦といった身体的な快感は心理の延長上にある入出力端末のささやかな反応にすぎない」(p. 266)。ここでの両者の語られかたは驚くほど似ている。見かけはまったく異なる両ジャンルは、人間の欲望の多様さに応えさらに多様な欲望を創出するという意味で、重なり合うのである。

 ポルノグラフィはしばしば能動的な男性/受動的な女性という固定化された役割を繰り返し描いていると批判される。しかし、人間の欲望や妄想の多様性を考慮にいれれば、話はそう単純ではない。たとえばロリコン漫画における少女は「性的対象であると同時に、意図的あるいは無意識的な自己投影の器」(p. 131)でありえ、陵辱と調教というファンタジーは「「変える/変えられる」こと、「強制力行使によって支配・所有する/される」ことの快楽」(p. 219)を描いているともいえる。読者は男性であっても、読む体験のなかでは「可愛い少女キャラになりたい/愛されたい/抱きしめられたい/侵されたい/虐待されたい」(p. 131)という同一化の欲望を叶えることができるし、物語のうちで陵辱される「受け」の女性に自己投影することによって「劇的に変えられる」という恐ろしくも魅惑的な快楽を体験することもできる。さらに、乳房と男性器の両方をもつシーメールは、男性読者にとって、乳房に象徴される女性の「気持ちのイイ身体」と現実のペニスの快感を併せ持つ存在でありえ、性的対象としての少年が登場する「ショタ」というジャンルでは、「自分との交合」というオートエロティシズムに浸ることができる。

 ただし、本書における「エロ漫画」は基本的に「男性向け」であり、漫画の読者像として想定されているのも男性である。解説の東浩紀が指摘するように、「永山は徹底して、男性向けエロ表現しか分析していない」(p. 368)。さらに、「男性向け」とされるジャンルにおける女性作家や女性読者をどう考えるかという問題もまだ残されているだろう。事実として女性作家の流入や、特定作家の作品に対する女性読者の存在に触れられてはいるが、それらが欲望のあり方や読みのレベルにどう影響を与えたかというところまでは言及されていない。フェミニズムジェンダー論から借用した言葉を度々用い、読みの多様性をうたいながらも、その読みの主体となるのはあくまで男性であり、「男性向け」エロ漫画を読む女性の存在やその欲望のあり方は不可視とされている。

 とはいえ本書は、エロ漫画に向けられる欲望の多様性の一端を描き出すことに間違いなく成功している。誰かが嫌悪感を覚える表現に別の誰かはエロティシズムを感じることがある。ひとりの読者であっても、読む作品ごとに、まったく別種のエロティシズムを感じ、別様に感情移入することができる。本書で描き出される人間の欲望の多様なあり方とその可能性は、人はどのようにして物語を読むことができるのかという大問題にもつながるのではないだろうか。