ストリップ、ファン活動、そして幸福

 初めてストリップへ行った2年近く前、こんな記事を書いた。

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 その後も浅草ロック座へはときどき通っていた。なんとなく見方が身についてきたと思いはじめた昨年末、友人と、ロック座から洋食屋ヨシカミ、スーパー銭湯まつり湯という浅草満喫ツアーをした。
 そのときの第一景がかんなという踊り子さんだった。そんなに背が高いわけでもないのに存在感があって、媚びない感じがかっこいい、気になる、もう一度見たいと思った。帰ってから検索して、彼女が2016年の春で引退すると知った。

1月、浜劇

 年明け、横浜日ノ出町にある浜劇(※現在は横浜ロック座)に初めて行った。座席数30人程度の小さくアットホームな劇場。初めてしかも女性ひとりで来た私に劇場スタッフもお客さんもとてもあたたかく、しかし決して過剰ではなく接してくれた。ステージ正面の前から2列目に座った。浜劇は2列目が最後列。ステージと客席との距離は手が届くほど近く、しかも、演技のあとに踊り子のポラ写真を撮る時間がある。浅草で見るストリップは美しいショーなのに対して、浜劇はより迫力があり、生々しさも高揚感もあった。
 かんなさんが登場し、それまでのステージもそれなりに真剣に見ていたはずだったのに、なんだかわからないままぐっと引きこまれた。小さな浜劇では踊っている側からも客席がよく見えるのだろう。彼女はきっと客席の全員を熱く見、ひとりひとりに目で語りかけていて、私はきっと他の全員と同じように、ああ彼女は自分を見ていると信じた。そして、たしか演目はルパン、そのなかで彼女は、まさに私に、私だけのために、決めポーズをしてくれた(と私は信じた)。瞬間、周りのすべてが消え去り、私と彼女のほか世界に何もなくなったように感じた。あまりにも陳腐な言い方をするなら、恋に落ちたのだった。

物理的にはそれほど遠くないステージと観客のあいだには、圧倒的な距離感がある。客席より高いステージ上にいる、女神のごときダンサーを、観客はただひたすらに、真剣に見る。そのように見られることによってこそ、ステージ上の人間の裸は、見られるべき、美しい裸になる。

 以前このように書いたとき、私には前提としてストリップとは裸を見るところだという考えがあったのだろう。いま思うには、ストリップ劇場で見ることができるのは、あるいは踊り子たちが見せているのは、裸(だけ)ではない。音楽と踊りはあっても、ダンスともまた違う。たとえるなら総合格闘技。何人も順番に舞台に上がるから、観客は順位を付けるとまでは言わずとも自然に他の人と比べ、誰かと行けば、何番目の誰々がよかったと終わった後に話すことになる。舞台にはおそらくある程度のルールがあって、そのルールの範囲で身体のきれいさ、パーツのかたち、顔のかわいさ、踊りの上手さなどなど何を武器にしてもいいからよいステージをつくった人の勝ち。観る方も、それらの要素や個人的なフェチ、性癖、何を手がかりにしてもいいからよいステージを観た人の勝ちだ。そういう意味で、かんなさんは最強の踊り子だったし、私もまた(最強とまではいわずとも)めでたい観客だった。

4月、浅草ロック座

 かんなさんの引退興行となる浅草ロック座4月の公演に何度も足を運んだ。はじめはそんなに何度も行くつもりはなかったが、行くたびにもう一度、いやできるかぎり行かなければという気持ちが強くなった。
 彼女が羽を背負って登場するところ、ほかの踊り子やバックダンサーひとりひとりとペアでダンスをかわすところ。衣装を脱いで、前かがみになって背中がドクンとなるところ。そこから立ち上がるところ。前の円形のステージに出てきて、汗がきらきら光っているところ。時計を表す仕草とそのときの表情。張りつめた身体。ふわっと広がるピンクの衣装。最後飛び跳ねているところと満面の笑みのクラップ(かんクラ!)。いつも振り付けは同じなのに、見るたびに神々しさを増すステージだった。
 長いファンでもなく名前を知られるようなことは何もしていないから、本当に彼女が私を知っているということはないのだけど、大入りの劇場でも、いつでも、また見に来てくれたんだねと言われていると感じた。視線の交わる一瞬、ちゃんと見ていて、絶対に目を離さないでと目で言われ、もちろん離しませんと目で返す。そのとき、私はこの一瞬この人のためだけに存在している、この人はこの一瞬私のためだけに存在しているという確信に満たされるのだ。
 最後の何回かは、かんなさんが出てきた瞬間にもう涙が出てきて、流れるにまかせながら舞台を見上げていた。彼女はストリップの舞台に立って10年10か月という。それだけのあいだ裸になって踊りつづけるとはどんなことか想像もできない。私は彼女の踊ってきた年月のうちほんの少ししか知らない。彼女が何千回も踊ってきたうち10回ほどの舞台しか見ていない。見えない大変なこともたくさんあっただろう。それでもここにいてくれて、踊っていてくれてありがとう、見つめさせてくれてありがとう。かんなさんはブログでよく10年10か月幸せでしたと書いていたけど、私もかんなさんを見ることができて本当に幸せだった。

 同じ公演に何度も通うことができたのは、他の踊り子さんたちのステージも何度見ても面白く、そしてストリップ劇場の雰囲気やファンのゆるやかな連帯感を好きになれた(少なくとも苦手ではなかった)ことも大きい。ストリップという文化にもいくらか触れ、ストリップについても人の身体そのものについての考えかたも変わった。それについてはまたどこかで。

 

*2020年11月:公開当初「かんなちゃん」としていました。その後彼女の復帰から再度の引退まで追いかけ、ちゃん付けにどうしても違和感があったため修正しています。