美しい裸

*初めてストリップを見たときの記録です。トリは矢沢ようこさんでした。

 浅草ロック座でストリップを見た。
 ひとことでいうなら、そこには「美」があった。
 人間の裸はそこまで美しいものだろうか。たしかにメディアを通して見る裸はある程度似通って整っている。それでも、たとえば銭湯にいけば、驚くほど多様な裸を見ることができる。無防備な人間の裸は、たるんでいたり、ぼこぼこしていたり、がさがさしていたりする。左右が非対称であったり、いびつな部分があったりする。裸を、お金を払って見るというのはどういうことなのか。そこに来る人はいったい何を見に来ているのだろうのか。
 私のとりあえずの結論は、ストリップは「美」である、あるいは「美」であろうとしている、ということだ。人間が服を脱ぎ、裸になる。彼女たちの裸は見られるために整えられた裸である。さらに、照明や音楽や前振りのダンスを通して舞台上からメッセージが発せられる。これは見る価値あるものです。美しいものです。
 ひとつのステージは数曲からなる。一曲目は奥の舞台で、服を着たまま、ステージ全体の雰囲気を示すようなダンス。二曲目でダンサーが前の円形舞台に出てくる。そしてだんだんと服を脱いでいく。三曲目と四曲目が山場、ダンサーは足を広げてポーズをとる。円形舞台はゆっくりと回転し、客席のどこにいても、彼女の裸がいろいろな角度から見られるようになっている。最後の曲でダンサーは奥の舞台に戻り、はけていく。このようなステージがひとつの講演で7回あって、観客は7人の裸を見ることになる。

 ストリップを見て思い出したのは、ちょうど現在日本に来ている、カバネルの《ヴィーナスの誕生》だった。

 

f:id:usagisan_u:20201120223837j:plain

 

 陶器のような肌の女性が恍惚のポーズと表情で横たわる。神話に名を借りたこのような「理想化された女性ヌード」は、当時アカデミックな芸術の世界の中心のひとつだった。このような絵が当たり前だったところに現れたのがマネの《草上の昼食》や《オランピア》で、マネの描く理想化されていない裸体はスキャンダルを巻き起こす。そして、「理想化された女性ヌード」は芸術の世界の中心ではなくなり、さらには「美」すら芸術の中心的な問題ではなくなっていく。ここまでは教科書通りの話。
 ああ、芸術の世界を退いたあの「理想化された女性ヌード」や「美」はここにあったのか、というのがストリップを見ているときの私の素直な感想だった。それは、私自身が美しいと思ったというのとは少し違う。ダンサーの裸が、芸術の世界ではもはやありえないほどに、ここでは「美」として扱われ、演出され、観客に受け取られていると感じたのだ。
 実際に足を運ぶ前には、ストリップというものはもう少し騒がしいもので、ダンサーが登場したときや山場では掛け声が飛んだりするのかと思っていた。しかし劇場は私の想像よりはるかに静かで秩序があった。手拍子も拍手も起こるが、熱狂的というよりは落ち着いたもの。観客の声は一切ない。物理的にはそれほど遠くないステージと観客のあいだには、圧倒的な距離感がある。客席より高いステージ上にいる、女神のごときダンサーを、観客はただひたすらに、真剣に見る。そのように見られることによってこそ、ステージ上の人間の裸は、見られるべき、美しい裸になる。自らの身体を美しくととのえるダンサー、彼女らの裸を美しく見せる演出、さらにそれを美しいものとして見る観客。それらすべてが合わさったところに「美」としての裸があらわれる、ストリップというのはそういう場なのだ。