キャバレーという非日常、あるいは人とただ話すための場

文春オンラインに「白いばら」についての記事を載せてもらった。

bunshun.jp

同店が2018年に閉店したことを受け、その店で働いていた元同僚と3人でサークルを結成して同人誌を出した。経験も技術も持ち寄り、手前味噌ながらどれもそれぞれにいい本になった。

白いばらというお店に対しては複雑な愛着があり、あまりによく言われていれば「そんなきれいごとばかりじゃない」と、悪く言われていれば「何も知らないくせに勝手なことを」と感じる。複数冊の同人誌を作ったことでいろいろな面から光をあてて語ることができたと思う(1~2冊だけ持ってる方はぜひ他の本も買ってください)。

文春オンラインの記事の最後には、サークルの他のメンバーの言っていたことを使わせてもらった。

閉店から3年、新型コロナウイルスの流行で人が集まること自体が難しくなってしまい、人とただ話すための時間・空間がこんなに貴重で恋しいものになるとは思ってもみませんでした。キャバレーという箱がなくなっても、人と人との親密な時間のための場、そこでしかできないコミュニケーションの場はいつの時代も必要とされるのではないでしょうか。

何百人もの人が毎晩ひとつの場所に集まり、膝の触れ合うような距離で隣同士に座り、することといえばただお酒を飲んで話すだけ。ただ人と過ごすこと、それだけのために装飾やドレスやショーといった装置が整えられ、大きな時間とお金と労力が費やされていた。

キャバレーは、少なくとも私がそこで過ごした平成の末期には、「昭和」で「レトロ」で「ディープ」なものと見られることも多かった。「キャバレーという場を必要とした時代が終わりつつある」と記事にも書いたが、そう語るときに浮かぶのは、キャバレーという場を必要とした時代はたしかにあったし、おそらく私たちにはいまも、キャバレーのような場が必要だということだ。

空間と時間で区切られたキャバレーという非日常。そこで出会う人々は原則そこだけの関係だった。日常を過ごすためにそのような非日常が必要であり、いつも会う人とうまくやっていくために、ときどきしか会わない人との関係が必要だったのだ。その「日常」(たとえば高度経済成長期におけるサラリーマンの「仕事」)や「いつも会う人」(たとえば専業主婦である妻)は社会を反映し、現在から見ればすべて是とはとても言えないが、多少の背伸びにより手の届く非日常が果たしていた役割は、「レトロ」なイメージが喚起するものよりずっと大きいだろう。

現在の私は、同居家族とときどき出社すれば会社の人としか会わず、穏やかに楽しくしかし閉塞感に満ちて暮らしている。浮ついた会話と感情を交わし、ときにとんでもない理不尽や怒りもあった日々のことを、その狂乱さえも私たちに不可欠なものだったのではないかと思い出しながら。